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第一幕 繋いだ手

last update 公開日: 2026-02-05 06:00:05

第一幕 繋いだ手

 僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。

 通っていたのは、大和やまと中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研まんけん沙友里さゆりはダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけが違っていたのかもしれない。

直哉なおや

 呼ばれて振り返ると沙友里がいた。制服の袖を少しだけ引っ張って、言いにくそうに視線を落としている。

「……一緒に帰ろ?」

 断る理由なんて、最初からなかった。並んで歩く帰り道。何だかいつもより歩幅が合わない。明らかに様子が違っている。

 沙友里は何か言いたそうで……でも、言わない時間が続く。沈黙に耐えきれなくなったのは、僕のほうだった。

「どうしたの?」

 沙友里は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく息を吸った。

「ねえ……笑わないで聞いてほしいんだけど」

 そう前置きする時点で、何かあるのは分かる。だから、その言葉の続きを、聞き逃さないようにした。

「アイドルに、ならないかって……言われた」

 足が止まる。沙友里も立ち止まる。

「まだ、口外しないように言われるけど……その……」

 沙友里の言葉が揺れている。冗談じゃないことだけは、すぐに分かった。昔から沙友里はアイドルになりたいと言っていたのを、僕は知っている。

「学校で……ダンス部からアイドルを育てるプロジェクトがあるらしくて。私、候補の一人に選ばれたの」

 僕は笑わなかったけど、言葉を発するのに少し時間がかかった。

「いいじゃん」それだけが口から零れた。

 それ以外の言葉が出てこなかった。

 沙友里が顔を上げる。泣きそうだけど、笑っていた。

「……本当?」

「漫画だったら、ここが第一話だよ!」

「……なにそれ」

 沙友里が小さく笑った。泣きそうだった顔が、少しだけ緩む。

「歌うのも、踊るのも好きだよね?」

「……うん」

「向いてると思ってた」

 それは、取り繕った励ましじゃない。ずっと一番近くで見てきたから言えた言葉だった。

 沙友里は、目を伏せて小さく頷いた。

 そして、次の瞬間——ぎゅっと、僕の手を握った。意識していない動きだったと思う。 自分でも驚いたように目を見開いて、慌てて手を離そうとする。

「ご、ごめん……」

「いいよ」

 そう言ったけど、正直、心臓の音がうるさかった。初めて触れる沙友里の手は、思っていたより温かくて、少し震えていた。

「……怖いんだと思う」

 沙友里が、ぽつりと言う。

「行ったら、変わってしまいそうで」

 僕は歩き出して、彼女の手を取った。今度は僕から。

「変わってもいいと思うよ」

「……え?」

「僕は観客席の最前列で応援するから」

 沙友里は何も言わずに、ただ手を握り返してきた。約束も、未来も、まだ名前のない不安も、全部がそこにあった。

 夕焼けの中で、僕たちは手を繋いで歩いた。それが当たり前のように。普通の恋人のように。

 どこかで犬が吠えている。僕には、やけに遠くに聞こえた。

——僕は、沙友里の味方でいよう。

 手のひらに感じる温もり、それだけが確かだった。

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